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伊藤昌美回顧展に寄せて

「陶の世界 伊藤昌美回顧展」(~7月18日)
が実現するまで


6月18日から7月18日まで、
「陶の世界 伊藤昌美回顧展」が開かれています。
本田さんがこの展覧会を開くに至るまで
本田さんと作家とご家族、伊藤さんを知る人たちをつなぐ長い年月がありました。
個人的な思い出話をからめて、その一端を紹介します。


伊藤さんという人がいた

1971年、私は日本海に面した地方都市の大学の
教育学部に入学した。
当時、郊外に新しい学舎ができていたが、
教育学部は、まだ街中にある古い校舎を使っていた。

戦後できた、鉄筋コンクリートづくりの校舎。
美術科のアトリエや講義室の窓は、すべてすりガラスで、
まろやかな光が室内を満たしていた。

廊下から一番先に入る部屋のテーブルに、
いつも座っている、年長の人がいた。
その人は周りの学生たちのおしゃべりなど気にも介さず、
一心に絵を描いていた。
白面の顔をうつむかせ、背中を丸めて一心不乱に。

あるときは、大きな貝殻をテーブルに置き、
白い紙にバラ色のコンテパステルで、
繰り返し何度も線を引いていた。

それが伊藤昌美さんだった。
当時、30代のはじめ。
27歳まで高校で美術を教えていたが退職し、
研究生として美術科に在籍していた。

一本の線

その人の姿には、何か心打たれるものがあった。
こんなに、絵に賭けている人がいるんだ……。

ある日、呆然とその仕事を眺めている私に、
その人が声をかけてくれた。

「君ね、この線とこの線の、
どっちが本当の線なのかわからないでしょう」

はあ、確かに…。

伊藤さんは、求める一本の線を探す、
その過程をすべて紙面に描いていたのだ。
紙面には無数の線が、勢いを残したまま定着していた。
そこから、具象画で言うところのマッスが立ち上っていた。

陶芸家への転身


1973年の夏、特別講義で陶芸実習が行われることになった。
当時、美術科を統括していたのは
レオナルド・ダ・ヴィンチ研究で知られる久保尋二先生。
久保先生は、私たちの陶芸実習に、なんと、
清水焼名跡の清水九兵衛先生(その後の七代六兵衛先生)を招聘した。

九兵衛先生は、すでに抽象彫刻の作家として活躍しておられた。
一夜、学生を交えての宴に参加され、
実習は、九兵衛先生が推薦された陶芸家の藤平伸先生に
指導していただくことになった。

そして、この藤平先生との出会いを機に、
伊藤さんは陶芸に向かい、
京都に移ることになった。

人づてにその話を聞いたとき、
あの、一本の線を追求していた伊藤さんが?
と、私は不思議な気持ちだった。

あれから長い年月がたち。
ある日、いつも同窓生をまとめてくれるKちゃんからの電話で、
伊藤さんが京都で亡くなったことを知った。
陶芸家として活躍していたさなかなのに。
Kちゃんの声は動揺していた。

伊藤さんの展覧会を

それからまた何年かたち、
それぞれが仕事からリタイアする年齢も近くなったころの集まりで、
高崎市で美術教育に携わっていた本田智子さんが、
小さならくだのやきものを皆に見せてくれた。
伊藤さんの作品だという。
京都に行って、奥様からおあずかりしてきたものだった。

「いつか伊藤さんの展覧会をやりたい」
本田さんは、伊藤さんの作品のユニークさ、すばらしさを、
熱心に皆に語った。

聞いていると、どうも伝統工芸的な陶芸とは少し違う
陶芸の世界が、そこには展開されているようなのだ。

いつか伊藤さんの作品をまとめて見ることのできる機会を、
という願いは、ご家族にもあり、
伊藤さんを知る同窓生たちの中にもあったことだろう。

2015年9月.本田さんの呼びかけに応えて、
同窓生7名が集まり、2台の車で京都を目指した。
ご家族の同意を得られて、
ギャラリー空華で伊藤昌美回顧展を開くことになり、
作品を高崎へ運ぶのである。

京都に行き、たくさんの作品を手に取って見せていただき、
本田さんが熱心に語っていた伊藤さんの陶芸の豊かな世界が、
ようやく理解できたような思いがしたのだった。
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空華で見た(5)松村智恵子ダンス at吉村浩美展

松村智恵子ダンス at 吉村浩美展に見た
上州文化の底力

2016年ももう半年を過ぎましたが、
昨年11月、ギャラリー空華で行われたオープニングイベントについて、
遅ればせながら書かせていただきます。
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作品と対話しながら踊る

11月8日、その日はギャラリー空華の開設1周年記念、
吉村浩美さんの乾漆彫刻展のオープニングの日でした。

舞踊家の松村智恵子さんが、二回、会場で踊る予定になっていました。
ベランダから登場する、と聞いていたのですが、
あいにく朝からこぬか雨が。

しかし。
晴れ間ののぞいたとき、期待して待つ観客の前に、
ベランダの右端から、松村さんの「踊る足」が登場したのです。
足を見ただけで違いがわかる、まぎれもない舞踏家の足でした。
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吉村浩美さんの作品「そらまめ」を手に持ち、
作品の間を踊りながら動いていく松村さん。

作品と、そして作品の置かれた空間と対話しながら
空間の意味を変えていくようなその動きは、
さながら生きる彫刻のようでした。
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大野一雄の孫弟子

終了後にお話をお聞きしました。
前橋市出身、中之沢美術館など県内の文化施設を舞台に、
絵画や彫刻とのコラボレーションも多い松村さん。

こうしたスタイルのダンスを始めたきっかけは?
とお聞きすると、なんと、高校の先生に舞踏を学んだことから、
というのです。

高校時代、山口直永先生が指導するダンス部で、
即興で踊るダンスを学んだそうです。
そして、その山口先生は、なんと、日本を代表する舞踏家、
大野一雄さんの弟子のひとりなのだそうです。
いわば松村さんは、大野一雄の孫弟子といってもいいわけです。
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大野一雄さんは、戦前に東京で体育教師としてモダンダンスを学び、
太平洋戦争に従軍し生還。
戦後は創作ダンスの公演活動を行い、
1950年代~60年代より、土方巽とともに
日本的な身体表現による「舞踏」を開拓。
80年代からはヨーロッパなど海外での評価が高まり、
国際的に公演活動を行いました。

高齢になっても自らの身体を限界まで生かして踊り続け、
多くの後進を指導。
2002年、越後妻有で行われた第二回大地の芸術祭では、
生け花作家、中川幸夫さんとのプロジェクト「花狂」で、
座ったまま花を降らせるというパフォーマンスを行ったことが
今も多くの人の記憶に残っています。

大野さんは2010年に103歳で亡くなりましたが、
その踊りの精神が、松村さんの踊りに継承されていると思うと、
感慨深いものがあります。

高校のダンス部で、舞踏を学んだ松村さん。
その松村さんに表現の場を用意するアーティストたちや、施設の皆さん。
そうした地域の輪の広がりが、日本独自のアートフォームである
BUTOH―舞踏―の流れを絶やさずに生かし続けているのですね。
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空間に助けられた

ギャラリー空華で踊って、いかがでしたか?
とお尋ねすると、松村さんは、
「作品とともに、空間に助けられた部分もありますね」とのこと。

小さな玄関を入ると、吹き抜け空間が思わぬ広さを感じさせる
このギャラリーで、
踊りが創造される瞬間を見ることができたのは、
とても刺激的な体験でした。
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参考リンク
松村智恵子さんのサイト
http://www.odoruhitono1.com/
大野一雄公式webサイト
http://kazuoohnodancestudio.com/
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